昭和四十五年六月三十日 朝の御理解


信心の心得 一、信心は家内に不和のなきがもとなり。


 信心は、というところを今日は強調してお話を頂きたいと思います。
  金光様の御信心を頂くと、もう教えの全てが信心によって徳を受けるという事なんですよね。金光様の御信心は、もうそれが全てと云うていいです。だから今日は、いわゆる金光教の信心は家内に不和の無きが元なり。金光様の信心はどういう事かというと、教祖様はもう一から十まで信心して身に徳を受けて日々喜びと感謝、そして安心のおかげを頂かせて頂く事を説いておられます。ですから徳を受けられる程しの不和の無い家庭を築くという事ですから、只、仲良うしとるというだけではお徳は受けられませんですね。波風も立たない、こっとりとも云わんごとやっていきよんなさるという、それではやはりお徳は受けられません。
ですから徳を受けられる程しの円満というものが求められる訳ですよ。
  今月の信心の焦点が仲良う楽しゅう有り難くという事でした。ひと月の私共の信心の焦点がそこに置かれておったが、果たしてまあおかげで仲良う楽しゅういったが有り難うどの位におかげ頂いたかと、果たして今月の信心の焦点が云うなら家庭に不和の無きが元という事になりましょうが。そんならどれ程こういう生き方で行きゃあ、家の上にも身の上にもお徳が受けられるぞという程しの仲良う楽しゅう有り難うであったろうかという事をやっぱりひとつ振り返ってみなければならんと思うね。
  ひと月に様々な事が皆さんそれぞれの家庭の中にもあった。自分自身の事の上にも様々な事があった。やっぱり日々の中に繰り返されて来た事だし、思うのですがその事が果たしてお徳が受けられる程しの頂き方、受け方、在り方になっておったかと思うのです。
  只、円満であったというだけではいけない。信心させて頂いておるおかげで、家族中が円満におかげを頂いて有り難いと例えばこういうおかげを頂いたと致しましてもです、それだけではお徳は受けられん。本当に信心のおかげで有り難いなあという、その有り難いという私は心がね、どう神様の前に報謝の姿となって表れたかというところまで、やはり高めなければなりません。
  平穏無事のおかげを頂いて仲良うやっていけれる、何と有り難い事じゃと、だからそこまではですねえ、なる程おかげは受けますねえ。そういう状態の家庭、そういう状態のいわば心。けれどもね、やはりお徳にはならない、いわゆるマイホームと云いますかねえ、マイホーム的な生活が出来ておると云うだけではおかげにならん。いわゆるお徳を受ける事にはならん。
  「信心は家内に不和の無きが元なり」金光様の御信心の信心とはどういう事か信心して徳を受けとおっしゃる、教えておられるその全ての御教えが、信心によってお徳を受けるという事にある。だから金光様信心とは一口に云うたらお徳を受ける為の信心という事になる。ですから身にも家にもお徳を受ける程しのやはり信心、仲良う睦まじゅうという事でも、只仲良う睦まじゅうというだけではいかん、仲良う楽しゅうやっていっておるというだけでもいかん。只有り難いなあと云うておるだけでもいかん。平穏無事である事を有り難いと思わせて頂いたら有り難いというその心でね、どれだけ例えば天地に対する神恩報謝の真が捧げられたかという事がお徳の対象となる。
  先日の信徒会の時に、甘木の平田さんの奥さんがお話になりました。いつでもどんな場合でも初代安武先生が、あの人達夫婦に云うておられる事は、「平田さん、当たり前の信心どんしよったっちゃ当たり前ばい、ちったましなおかげを頂く為にはやはり人の受けきらんようなおかげを受ける為には、人の又しきらんごたる信心もせにゃでけん」という意味の事をおっしゃっておられます。
  金光様の御信心頂いて、毎日お日参りをさせて頂いて教えを頂くから家庭が円満でおかげで有り難いと、だからここまでは金光様の信者としたら当たり前なんです。だから当たり前のおかげしか受けられん。それだけでも大変な事ですけれどもね。けども金光様の御信心がです、教祖様はもう口を開けばお徳を受けるという事を教えておられますから、金光様の御信心は金光様の御信心によって身に徳を受けよう、家に徳を受けようと、それがあの世にも持ってゆけ、この世にも残しておける程しのものにしていこう、いわゆる親の代よりも子の代、子の代よりも孫の代に繁昌していく程しの信心をさして頂けよと教えておられます。ですから当たり前の信心ではいけない事が分かります。
  毎朝、朝参りをしよります。と、それは全国どれだけたくさんあるか分かりません。朝参りを何十年と続いておる人達もたくさんあります。しかし、金光様の信心はもう朝参りは当たり前ですからね。そんなら、その当たり前では、当たり前のおかげだから少しましなというところが、云うなら私はお徳を受ける為にはという事だと思います。だから、ちったましな信心せにゃんばい、ちった変わった信心せにゃ変わったおかげにはならんばい、という風に教えられたという事をお話の中に何回も何回も申されましたですねえ。そこでそんなら平田さん達夫婦
はです、なる程、人の真似の出来ん信心をしてきなさったからこそ、ああいう人の真似の出来んおかげを受けておられるとも云えます。そして、あのお話の中から感じる事は、平田さんというのは大変やかましいお方ですからちょっとどうかあるとすぐ雷が落ちる。だから家の中にです、例えば雷が落ちるとやかましかつがおると、いかにもそれは平和ではないようであるけれども、今日ここで頂くお徳を頂く為の平和というものは、よしどんなに雷が落ちてもそれを受ける方が円満で受ける、又は落ちた方が云うなら、まあ、私が機嫌が悪か時には天地の親神様の機嫌が悪か時と思いなさい。といったような事を申しますよねえ。私は平田さんに云わせたら、そういう意味の事ではなかろうかと思います。俺がやかましゅう云いよるとは俺が云よるとは思うな。という程しに、云うならば私心のない
雷の落ち方である。その証拠に、その後が素晴らしい。なる程、天地が見ござる、天地が聞いてござるという程しにです、次のおかげのタイミングというものが素晴らしい。いかに雷を落とされた後でもつまらん小さい云うならば小さい我。
  私、これも二十年位前に頂いた御教えの中に『小我を捨てて、大我に生き抜け』
という御教えを頂いた事がある。我を捨てろ捨てろ云うばってん、大我は頂きぬかにゃいかん、そういう意味合いで平田さん達の場合は、それが大我の場合のように思われる。同じやかましいでも次元が違う。その証拠に天地が自由になる程しの平田さんが、例えば外へ出られると雨降りでもお天気がよくなると云われる程しに、やはり天地が平田さんの為に働いておられる体験を積んでおられる。ですから、家庭の中にあっても云うならやりやり夫婦喧嘩のようなのがあっても、そういう高められたものならば、おかげである。只、お互いが辛抱しおうて黙って平穏でいきよる、無事でいきよる。そげな大きな声出しなさんな、近所から笑われるばい、というような事位でです、近所から笑われるけん大きな声出さん位の円満では、それは本当の円満じゃない。信心は家庭に不和の無きが元というのじゃない。そこで、やはり心の底にいつもがです、神様の働きをもうひしひしと感じて、こういう神様のおかげの中に守られている、御守護を受けておる有り難さというものがです、その神様の思いを思えば思う程です、お粗末御無礼な事があったらやかましゅうでも云わなにゃおられん。平田さんの例をとりますと、そういうような事ではなかろうかと思う。
  そこで今月、私共がそこに焦点を置いて信心の稽古を進めましたようにです、今月の一日に頂きましたように、今月はいっちょこの信心でいこうと云うなら仲良う楽しゅう、しかも有り難くという。仲良う楽しゅうだけが円満だと思うとったら大変な間違い、いわゆるお徳を受ける円満というものは仲良う楽しゅうだけじゃいけん、仲良う楽しゅう有り難うと、有り難い事じゃ、この有り難いものがです、それこそ天地に報謝し奉る、神様に報謝し奉る働きになって表れる時に初めてお徳の受けられる家庭な不和の無きが元とおっしゃるのは、そういう信心だと思う。
  昨日、お昼から散髪に久保山さんが来て下さった。ひげを剃ってもらいながら
ちゃんと眠ってしまっておる。昨日は敬親会でした。ところが私がお夢を頂いておった。そのお夢で目がさめて、あら今日は敬親会がありよったたい、早う一言でも敬親会の方達の所に参加してからお話させて頂かにゃと思わせて頂いた訳ですが、その夢というのがこういう夢であった。
  ここの応接室に私がおる。それでどうも客室の方に食事の準備が出来たから客殿の方へ行って下さいという事だったように思う。だから私は応接室から客殿に行かせて頂いた。なる程、そこにお食事の準備のようなものが出来ておった。ところがあちらの西隅の方に何か汚いものが、それを見たら御飯どん食べられんごたる、汚いものがいっぱい散らかっておる。そこで私は、ほうきを持ってきてそれを一生懸命はわき出そうとしておるところで目がさめた。ははあ、今日は敬親会がありよる。このは敬親会の方々に聞いてもらうお話だなあと思うた。そしてその事を聞いてもらった。そしたら、もう先生がおやすみなっとるという事じゃから若先生のお話を聞こうと云うて若先生に来て頂いたとこじゃった、というとこだった。それで若先生がひとしきりお話が終わっておるところでしたから私と交替して、私はその頂いた夢のお話をさせて頂いた。こういうお夢を頂いたが、
これはこういう事のように思うと云うて話した。
  例えて云うと、応接室というのは現在私がおかげを受けておる所の場という事。
云うならば、この世で私がおかげを頂いて、まあここの応接室は云うなら立派な応接室ですよねえ。調度品から置いてあるものが云うなら一級品ばっかり置いてある。かかっておる絵であろうが書であろうがそれこそ、まあ勿体ないようなものがかけられてある訳です。だから私は、この世ではそういうおかげを受けておるという事なんです。だからね、私共がこの世からあの世に移るという事は、丁度応接室からすぐ隣にあるところの客殿に入るようなものだという事、私共が生きるという事死ぬるという事はそんな事なんだ。私はそれは頂いた時に、これは大変な御理解で敬親会のおばあちゃん達が頂きなさる御理解だけじゃない、これは私自身が、いや合楽に御神縁を頂いておる人達が全部この事をひとつ本気で分かってもらわねばならんなあと私は思うた。
  人間の生とか死とかいうものはです、もう人間の一番最大の重大事なのです。
それを、私が現在のまだ元気でピンピンしておる時です、そこのところを分からしてもらう、宗教の救いというのはね、本当云うとそういう私共が大志一番と申しますかね、いよいよ私共がこの世からあの世に移る時、そこの死生の安心と云うかそれを受ける事の為に、私は、一生懸命信心の稽古をしておるのですよ。それは言葉を替えますと、お徳を受けるという事になる。お徳を受ける事によってです、それこそ死に際にもおかげを頂いて有り難うございますとお礼を申し上げるような、いわゆる仏教的に云うなら大往生のおかげを受けられる。死というものは怖いものじゃない。悲しいものでもない。むしろ、あの世に誕生するのだからめでたいのだ。只、お互い肉親の情がいわゆる愛別離苦の悲しみという事になる訳です。けれども本当の事云うたら、私共はこの世からあの世へ誕生するという事なのだ。云うならば、応接室から客間に入る位な簡単な事だという事。だから私共はそこのところをです、淡々としてそんなら応接室から客殿に行けれる準備がいつも出来ておらなければならない。そういう準備がです・・でけておる。
  私は、昨日敬親会の人達に申しました。どうでしょうか、ああた方は、いつお迎えが来てもそれにハイと云うてお迎えの車に乗れれる、例えば、だけの信心が出来ておるであろうか。それこそ例えば私共の、これは私も死んだ事はないから
分かりません。あの世というのがあるやら無いやら実際は分からん。けれどもね私共はそこのところをです、教祖様がお取次下さる、いわゆる神様の世界というのが必ずあって、その教祖様のお取次の頂けれる所に私共は、やらせて頂くという信念。ところが、そこんところが分かってない人達はどうでしょうかね。もう死んだらそれまでたいと、人間は泥になってしまうとじゃけんというような事ではなくてです、私共が死んだ先の行き先というものを、はっきり見定めとかにゃいけん。しかも、あの世でもままにならなければならない。いわば、あの世でも仏教的に云うならば極楽に往生させて頂きたい。いわゆる教祖様のお取次の頂ける場に私共は行きたい。だから私の場合はですね、おかげ頂いてここで最高のおかげを頂いておるこの心のままに、あの世でも最高のおかげが受けられるように思う。今死んでも有り難い。ところがね、今はまだ死なれない。何故かと、まあだ汚いものが隅の方についとる。その私共が死んで行く行き先はどこかと云うと私の心の中なんです。
  自分の心の中をいっぺんよく見てみるがよい。あなたの心が清まっておるならば、ああたが行く所も必ず清い所に行くだろう。ところが自分を見て何と浅ましい何と汚い自分だろうかと云うなら、浅ましい世界に行かねばならんと思うて、まず間違いない。だからこの世で極楽に行っとかずして、あの世に極楽はないという事。信心というものが、死んだ先の事がなあにもないという事だったら、もう信心そのものがなあにもないという事になるのですよ。だからそこが信じれるところに大安心のおかげが頂ける訳なんですよ。
  息をひきとらせて頂く時に有り難いなあと、お礼を申させて頂いて、これから又あなたの元にやらして頂きますという、そういう事が信じられるから安心して死んでいけるのですよ。これはもう絶対、誰もがそこをいっぺんその生から死への難関と云うか、関所と云うかそこを通らなければならない。けれどもそれは本当の難関と云うのではない。それは応接室から客殿に移るようなもの。そこにはもうちゃんと御飯の準備がしちゃる。そこでままになられるような準備がしちゃる。ところがそんなら今、私がそこへ行ってもです、せっかくここにままになるおかげを頂かせて頂きよっても、部屋の隅の方へ汚いものがちらかっていると思うと、そのせっかくの美味しいはずのものが美味しくなくなるような、まあだ状態だからそういう汚いものを私の心の中から又一掃していよいよ清っていよいよ改まっていよいよ研いて、事のあるたんびにその事によって研かせてもらい、その事によって改まらして頂くという信心精進がなされなければならないという事になる。この事は大変な事だと思うんです。
  今日私は、信心は家内に不和の無きが元なりと信心させて頂いて教えを頂くという事。教えを頂けば頂く程です、いわゆるぶっすりがっすりどんは云われん。不平不足どんは云われん。家族中の者があいよかけよで云うなら拝み合うていくような生活させてもらわにゃでけん。しかも仲良う楽しゅうだけじゃいけん。
  例えば、お金ならお金がある時にはえらい仲良ういきござる、しかも楽しゅういきごさるけれども、金がちょいと少なくなってくるともう喧嘩が始まるというような事じゃいけん。例えば金は無かっても、もう明日食べ物は無かってもです
仲良う楽しゅう、しかも有り難ういけるのが信心なんだ。だからその仲良う楽しゅう有り難いというその心で、本当に信心させて頂いてこんなおかげを頂いて有り難い勿体ないという心でです、私共がどう神様にお応えする生活をさしてもらうか、神恩報謝の生活をさせてもらうかというところが、たったそれから先がお徳になるところなんです。
  これも以前に頂きました御教ですけれども『人が人偏なら私しゃぎょう人偏』という事になる。只ちょっと違うだけ、只円満である、仲良ういきよる楽しい。それに有り難いが伴ってその有り難いがです、神様のお喜び頂けれるような事に行使される、それだけなのだ違いは。だから朝参りが出来よります、家庭が円満でありますと云うだけなら、甘木の親先生のお言葉を借りると、それは信心しよるなら当たり前ばいという事になるのです。だから当たり前じゃ当たり前のおかげじゃけん、平田さんちったましな信心せにゃましなおかげにならんよ、という事をです、甘木の初代は云うておられたという事を、そのちったましなというところをです、私共はね、ひとつ本気で分からして頂かにゃならんと思うですねえ。  まあ例えて云うと、もうこげん忙しかった、今日はお参りはせんでんこの忙しいとは神様も御承知じゃから御無礼としよう、とそれは当たり前の事。そういう信心がいわゆる当たり前の信心。日頃は熱心にお参りが出来よる、けども今日はこげな忙しか、今日は忙しかつも神様は御承知じゃから今日は御無礼しよう。そこまではね、誰でも出来るとですよ。金光様の信心を本気でさせて頂こうとする者なら、そこまでなら誰でん出来るとです。
  これはもう私自身の事云うなら、私どんが場合はそれから先が違うとったと思うのです。もういよいよいわば、忙しいなら忙しか、手がはずされんという時なら、そういう時ほど勢いよくお参りさせて頂きました。御用でもそうでした。いよいよ出来ん、もうなか事は神様が知っちゃるけんじゃない。もうそれこそない神様の下をふるようにして御用頂いてきた。そこだけが違うとった。だから当たり前じゃないでしょうが。御用させて頂くでもです、もうこげん忙しかつじゃけん、お金が無か事は神様が知ってござるから、と云うたらそれは当たり前になるのです。いわゆるそれが人偏なんです。ぎょう人偏と云うならそれにちょっと行を加えるという事です。
  『人が人偏なら私しゃぎょう人偏』もう普通の人なら当たり前の人ならば、とても今日はお参りは出来んという中にでもです、お参りの工夫をさせて頂いて、むしろそこのところを元気な心で、これはお参りだけの事ではありませんよ、少し違うという事はもう一事が万事そうなんですよ。けど分かりやすく云う為、お参りという事で申しております。もうこげな時にお参りの出来るはずはない、というような時でもやはりお参りを続けさせて頂いた、たったそこだけが違うのです。その、そこの違うところだけがね、違うところからがおかげになるのですよ。
 普通、誰でも出来る信心だったら当たり前でしょうもん。だから当たり前の者が誰も彼も御神徳、受けるという事ではありません。だから私は、合楽の方達は
その当たり前以上の人達ばかりの集まりだと、私は思わせて頂く。だから当たり前以上の・・それはこの頃からの信徒会の時の皆さんのお話を聞きよってもそれを感じました。合楽の方達はみんな少し違うなと思いました。ようにです、皆さんの銘々の信心をです、自分の胸に手を置いてみてです、出来んと云や、それは当たり前だから出来んところをです、可能にしていく信心、云うならば。そこんところがです、出来てこそ初めてお徳になる。そのお徳がね、あの世にも持って行けこの世にも残しておけれる、いわゆるお徳を頂くからです、心の芽が開けてくる。心の芽が開けてくるから、難儀は難儀でなくなってくるし、それこそ大往生のおかげを頂かせてもらえる、いわば応接間から客殿に移して頂く程しの、それこそ簡単な有り難い思いでです、移る事が出来る。移り住まわして頂く事が出来る。それでもなおかつです、その自分の行く所が清められておかなければならないところに、限りない心の清まりを願うての、魂の清まりを願うての信心にならなければならないという事になりますよね。
  『信心は家内に不和の無きが元なり』只円満にいきよります、楽しゅういきよります、と云うなら信心が無かったっちゃです、こっとりとも云わんでいきよる所がありますよ。だからそれではない事をひとつ分からにゃなりません。少しは違わにゃいけん。次に有り難いというのが伴うとらにゃいけん。しかもその有り難いがです、次の例えば神様にお喜び頂けるような御用の原動力になる程しの信心、そこだけが違う、そこが徳になるんだという事を申しました。どうぞ。